■一先ず。
出来ている分だけ掲載。
書いてる最中、ふと「狂気が正気に返っても面白くないよなー」と思ったが運の尽き。
まあそう簡単に許されるのもおかしいよなと。しかし勧善懲悪もどうだかな、というジレンマを抱きつつ書いていたらこうなりました。
真に恐ろしいのは忘失した無垢かそれとも狂信者か、という。
以下、クク主です。
感想ありがとうございます!
悩んだ時に見返して活力を頂いております!
(10/27:エイト側を追記しました)
きれいなぎんいろだな、と思った。
けれどもそれは悲しい顔をしていて、しかも急に自分の方へ向かってきたものだからエイトは驚いてしまう。
――ふわり、と。
前を向いたまま後方へ飛び、伸ばされた手を回避する。空を切った銀の手を無関心に眺めるエイトの背には一対の竜翼。瞳と同じ深い色をした黒曜石の色彩が、空を掻いてその身を宙へ留めている。
重力を感じさせない動き。黒いローブの裾が揺れて、白い足が覗く。靴は履いておらず、爪先だけを残して黒い布が巻かれていた。
履物の代わりなのだろう。艶が消えた漆黒の布は何の素材で出来ているのか遠目からでも美しく、足の白さを際立たせている。
緩やかに動く竜翼は無音。空気抵抗すらも無視して静寂に従っている様はまるでエイト自身のようだった。――常に静謐の中にいた美しい存在。
銀髪の男は、空に浮かんだエイトを驚愕の顔で見上げていた。
しばらくの間、見惚れたように──または、その目に絶望の色を浮かべて?──エイトを見つめていたが、やがて言葉を投げる。
「お前、それ……どうした?」
問い掛けに対して、エイトは首を傾げただけ。手が届かない距離を保ったまま、男を見下ろしている。
睥睨、いやその眼差しはただの観察。
けれど人としての雰囲気からはだいぶ遠いもの。
──人ならざるものとして。
最後に見た、透明な微笑を浮かべたエイトよりも更に遠い……氷の――女神?
「……まさか」
男は愕然とした顔で、ふらふらとエイトに近づき、もう一度その手を伸ばす――が。
それは空を切っただけ。エイトが更に距離をとった為。その際にはためいたローブの端すら掴めず、男はその場でつんのめり危うく丘の縁から地上へ落ちそうになった。
断崖の距離。男は――ククールは、エイトに向かって手を差し伸べ続ける。
「エイト」
こっちに来いよ、と。
誘い掛ける自分は果たしてちゃんと笑みを作れていただろうか。
エイトは少し首を傾げて、その手を見つめていたが距離を縮めることはなかった。
瞬く星がごとく目をぱちくりとさせて。無音の翼を羽ばたかせつつ空中に留まっていたが、やがてゆっくりと高度を上げ始める。
「っ……待て、エイト――待ってくれ!」
ククールは叫び、自分の身長よりもずっと高いところにいるエイトを掴もうと腕を伸ばすが、それに与えられたのは一瞥だけ。
無関心な黒曜石の瞳。
美しく透明な、けれど人の感情が窺えない眼差し。夜空を映した黒青のローブを翻して、エイトは遠ざかっていく。
地上は最早、一顧だにせず。日が昇る方角に向かって去っていくエイトを、ククールはただ目で追うことしかできない。
咄嗟に飛翔魔法――ルーラを唱えたが、失敗した。
エイトの向かう先が自分の知らない場所だからだろう。
だが、エイトは竜神の里に向かって帰っていったのであり、現在は竜神王に張られた結界によって立ち入りが不可能となっている為に詠唱した魔法が消失したのだということを、ククールは知らない。
夜空に溶けるように消えた漆黒の星を、ただ見送ることしかできなかったククールはその場に両膝をつく。……崩れ落ちて、蹲る。
黒衣が風を受けてはためく。夜の中、一つに束ねた銀の髪が曲線を描いてククールの周囲を舞う。
慰めるように。
それとも――嘲笑うように?
前髪をぐしゃりと掴み、受難の信徒さながらにククールは頭を抱える。
「なんで、あいつ、あんな……」
ようやく見つけた氷の女神。
かつては大国トロデーンの近衛兵士長だった男。
姿は変わっていないのに、雰囲気がまるで違っていた。
ただでさえどこか浮世離れした空気を纏わせていたというのに――後にそれは単なる口下手のせいだったと分かるが……今はもうどうでもよくなってしまっている――先程見たエイトは、人としての存在感がほとんど無くなっていたのだ。
まず視界に入った瞬間、全身が重くなり力が抜けそうになった。上から何かに抑えつけられるような威圧、とでもいえばいいのか。
暗い幼少期で体験した、薄汚い権力から受けた仕打ちのほうがまだ幾らも「優しかった」と思えるほど。それくらいに強い畏怖が、あの瞬間――エイトがククールに視線を向けたあの時に――ククールに襲い掛かったのだった。
まともな関係でいた頃も、何度かはそうした洗礼を受けたことはある。ああ、出会った当初などはよく氷の眼差しを受けて竦み上がったものだ。
ただしそれはエイトの相貌が美しすぎた為に起きた緊張や動揺であり、また魅了でもあったからククールは震える羽目になったのだ。――美しすぎるものは大抵、人の琴線を乱してくれるのだ。人の感情がその美貌に耐えかねて暴発するからだろう。
けれども、黒い色彩に身を包んだあのエイトは。
あんなものは知らない――いや、知っている筈だ。
白い檻の中でたった一度見た。白日の幻視だと思い、思い込んで逃げ続けた日々の陽炎。
あの時にはもう彼の背に前兆があったというのに、ククールはエイトの願いを聞かず、喉を潰し、声を摘み取り、散々にいたぶった。
何度も傷つけ、彼の手足に幾度も巻いた白い包帯。
それを塗り潰すかのように、先程のエイトには黒い布が巻かれていた。
エイトにとって、純白の檻の世界は安全でも聖域でもなかっただろう。錆銀の格子。銀の鎖で繋ぎ、縛り付け、「大切に」閉じ込めていた宝物はけれどいつでも抜け出せたのだ。
――空に揺蕩う姿のなんと美しかったことか!
ああ、とククールは顔を覆ったまま呻く。
閉じ込めて三年。見失ったのは一年。
らしくなく錆びた十字架を身に着けて、各地を駆けずり回っていた。けれど何も見つけられず――あろうことか、竜人の里の存在を忘れてしまっていた――そんな時に、この再会を果たしたのだ。
闇色にすっかり浸っていたがその美貌は健在で、しかも驚いたことに「悪に堕ちていない」。
いや、エイトがそちら側へ落ちるなどありえない。支配はすれども隷属には決して下ることない高貴な魂。強靭な精神。血の躾に対して返された透明な微笑は、今でも覚えている。
エイトを見失った後、ククールは半狂乱になり檻の中を探し回った。聖灰の山を探り、砕けた鎖を掻き合わせ、血の染みがついて汚れたままのシーツを引き摺り、エイトの名を呼んで――叫んで探した幾月。
エイトは檻を抜け出し、ククールは置き去りにされたのだとようやく認めたのはそれから数日後。ぼんやりしたまま部屋の中を眺めていた時に見つけたのが、銀のロザリオだった。エイトの血が飛び散ったのか、錆びてくすんでいたそれを手にした瞬間――慟哭した。
「……エイト」
どれくらい、そこでそうしていたのか。
ククールはふらりと立ち上がり、エイトが消えた方角を見上げる。月と星とがあるばかりの夜空。澄んだ空気と冷たい風がそよいでいる願いの丘の頂上に佇んだままのククールを、月は静かに照らしている。
女神を汚した罪人を冷ややかに睥睨して。
「……俺は」
ククールは自身の左手を胸に当てた。黒い修道服の下には例の、血で錆びたロザリオがある。
神には祈らない。この祈りを捧げる先はただ一つ。
これは漆黒の祈り。
罪は許されず、贖う術も最早ない。
けれど、それでも、ああ――。
「――また、お前に、会えた」
きっとこの血のロザリオが導いてくれたのだ。
ククールは絶望と虚無と、それから狂愛をその瞳に浮かべていつまでもエイトが消えた方角を見つめ続けていた。
◇ ◇ ◇
遠い空の上。
竜人の里に続く道の前に、影がぽつんと蹲っていた。
深い夜の色をしたローブを胸の前で掻き合わせて小さくなっている姿は頼りなく、子どものよう。肩を震わせ俯く横顔は蒼白ながらも美しく、徘徊していたモンスターが周囲に集まってきたほど。
それでも、モンスター共は一定の距離をとって近づかない。禁忌の距離。防衛本能からか、それとも従属が為か。
人影は――エイトはゆるりと顔を上げると、それらに冷たい視線を向けて……微笑した。
「気にしなくていい」
白い手が、ひらり。
示すものは――『散れ』
モンスター共はそれぞれに顔を見合わせ、視線を交わし合い、やがて一礼に似た仕草を見せてから散り散りに去っていった。
エイトは震える息を吐き、再び俯く。
夜空の空中散歩を終えて里に戻って来たのだが、不意に気分が悪くなってしまったのだ。
原因は分からない。……判らない、けれども。
願いの丘で見た銀色の男に一因があるのではないか、とエイトは考える。
(きれいなひとだった)
星の欠片のような聖銀の髪に、少し触れてみたいと思った。
(きれいなめをしていた)
晴天の空、もしくは高温の青い炎をしたあの瞳をもう少しだけ見つめていたいと思っ――。
――くらいめでみおろしながらきれいにわらうひとがいた。
「ぐっ……」
途端に胃の腑が重く沈み、覚えたのは吐き気。背中の辺りが寒くなり、得体のしれない不快感に襲われる。
寒気が酷い。手足が冷たくなっていくのを自覚する。
「……ぅ、え」
脳裏に点滅する白の色彩。それはべとべとしていて、エイトの顔や腹――胎の奥にまで侵食していたような。
「――っ……げほっ、かはっ」
血の匂いを嗅いだ気がした。
えずく口内に生ぬるい鉄の味が広がる。
「はっ、はぁ、あぁ……う、……っ、げほっ」
けれど吐いたものに赤い色はない。
見知らぬ幻覚の味というのか。エイトは冷えていく体を自分で抱き締めて、ますます小さく身を丸めていく。
(さむい)
里の入口は見えているのに、辿り着けない。帰れない。
警戒に当たっている門番二人が、困惑した様子で遠巻きに見ているのが気配で伝わる。
エイトは立ち上がろうとするが、体がどうにも冷えてしまって動けそうになく途方に暮れる。
目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶ銀色の星。エイト、と名を呼んできたあれはとても綺麗だったけれど。
――どうしてだろう。
伸ばされた手を見た瞬間に、逃げだしたくなったのは。
――どうしてだろう。
あの目も声も顔も好ましく思うのに、苦しくなって……何故だか悲しくなってしまうのは。
(……、……トーポに、あいたい)
大切な友達。小さな頃から側にいてくれた、たったひとり、の……。
エイトの瞳が揺れる。友は果たして一人だけだっただろうか?
ゆらりと上体を起こして空を見上げれば、そこにある色彩が滲み何かの言葉が浮かぶ。
「ク、ク」
「――かような場所で何をしている、エイト」
重圧のある声がすぐ近くで聞こえたとの同時に、空へ向けていた視界が闇に変わった。何者かの手によって両目が塞がれて。
誰何は――必要もなかった。
「……竜神王」
神の気配。竜の王たる声。闇の中でエイトが言葉を発せば、ああと返事があった。
「里の者より報告があってな。お前がなかなか中へ入って来ないから私が迎えに来たのだ」
頭上にて響く低音には、微かに笑う調子が含まれていた。そして、どこか探るような。
「……何故、里へ入って来なかった? ここで何をしている?」
問われて、エイトは天へ向けていた上体を地の側へ戻す。吐き気は治まり、少しだけ気分が良くなっていた。ほんの僅かではあるが。
静かに息を吐き、両目を押さえられたままで答える。
「星を、見つめすぎて……それで、少し……、……疲れた、かも、しれない」
全くの嘘でもない。
彼の銀に僅かなりとも純粋に惹かれたのは事実。掬おうとする前に忌避感を覚えて結局は触れられなかったけれど。
手足の冷えた感覚はそのままであるものの、目元に触れている竜神王から伝わる熱に幾らかは動けるようになっていた。
ゆっくりと腕を持ち上げて、視界を覆っている手を下げる。払い除けるのではなく位置をずらしただけに留めておいて、エイトは竜神王を見る。
自分を見据える竜の瞳は穏やかながらもグルーノとはまた違った感情が籠められているようだと、エイトには感じられた。
親愛、いやこれには覚えがある。
狂愛。
白い世界で溢れんばかりに注ぎ込まれたどろりとしたもの。
「――っ、ぐ、ぅ」
再び生じる怖気と吐き気。エイトは口を押えて前のめりになる。
白。銀。青。ちかちかする視界の中で色が回る。
異変に気づいた竜神王が戯れの手を離し、エイトの背に手を当てた。エイトを覗き込み、蒼白の顔色とそこに差す陰に眉を顰める。
「……聖刻の冷気がまだ残っているか。全く、人の執着というのは恐ろしいな」
言うなりエイトを横抱きに抱え、足早に里へ向かう。
「私の寝屋へ行こう。お前の身に刻まれた聖刻は存外根が深い故な」
竜神王の腕の中で、エイトが首を振る。横に、ゆるゆると。苦痛の為か目を閉じた状態から――それでも表情は美しく凍らせて――息を吐くように言った。
「王、の御業は、……願わない。……これは、俺が、自分で」
「――ならぬ。お前ひとりで喰い破ったところで傷になるだけだ。抑えきれはせぬよ」
エイトの拒絶に、竜神王は強い否定をぶつける。一瞥し、蒼褪めた顔に目元を歪めて吐き捨てるのは僅かな怒り。人より少し外れただけの女神然とした若き竜は、王である自分の命を聞かない唯一の抗命者。反逆の徒はけれど類まれなる美貌の持ち主で、手放すにはどこまでも惜しい。
だから竜神王はエイトの無礼を見逃す。――逃げることは許しはしないが。
抱き上げる際に触れた手の冷たさに苛立ちを覚え、エイトを一瞥する。
「何か思い出したのか」問えば、エイトは竜神王を見返すこともせずに首を横に振った。変わらぬ返答。頑なな態度。
竜神王は、そうして秘密を抱え込んだエイトの硬質な美貌を眺め、笑う。
沈黙の隠匿。けれど体が偽りをしっかり述べているではないか。
自ら両手で口を塞ぎ、押し黙っているエイトに竜神王は言ってやる。
「それはお前には必要のない記憶だ。取り戻そうとせず、手放すがいい」
「……れは」
何か言いかけるも、エイトは口を噤む。それからまた、首を横へ振って拒絶した。王の慈悲受け取らぬ無礼者として。
けれども竜神王は微かに片眉を上げてそれを受け止めただけ。怒りもせずに、言葉を返す。
「ともあれ、これではまたお前の祖父は騒ぐだろうよ。心痛でそのうち倒れるやもしれんな」
意趣返しではなかったが、竜神王がそう言った時、エイトがびくりと肩を震わせた。目を開けて竜神王を見上げる。
「……トーポには」
黙っていて欲しい。
温度のない美貌にようやく差した一握の感情。哀願の色を宿した黒曜石にひたと見つめられて、竜神王は息を飲む。
幻惑さながらの深い魅了。竜を、その王の捕らえる力は強い毒のようで、竜神王の胃の腑にまっすぐ落ちる。
ぽたり。
「……グルーノには言わぬよ。我が民に余計な煩いを掛けたりはせぬ――お前が大人しく我が慈悲を受けるならな」
「……、……分かった」
小さくコクリと、エイトが頷いた。諦めに近い声音で答え、再び目を閉じる。
今度は会話の拒絶がきた。竜神王は苦笑を浮かべるともうそれ以上は何も言わず、道を上り、駆け、自らの寝屋がある建物へと入っていく。
警備していた神官は何も言わなかった。
――言えることなど何もない。王が女神を抱えて向かった先は、寝屋であったので。
竜が王の密やかな褥の扉が閉じられる。
エイトは自ら閉じた目の裏に浮かぶ綺麗な銀色を見つめ、少し――ほんの少しだけ、触れたくなった。
[2回]
PR