空が夕暮れと共にゆっくりと夜の帳を下ろし始めた頃、マイエラの騎士団長殿はその町にやって来た。
春の女神祭。
豊作を願い、女神に祈りを捧げる敬虔で静謐な催し――だったのは、昔の話。
今は町の活性化と、人々のちょっとした娯楽によって継続されている。俗物が云々だの罰当たりだのと、言うつもりはない。それよりも汚濁に塗れた神聖なる場所を知っているが故に。
町は、日が沈みつつある夜の中にあってもなお活気があった。
後夜祭でもあるのだろう。教会前の広場には焚き木が幾つも積まれた台があり、それが大きな光源となって町の中央を照らしている。また、出店らしきものの軒先には外灯があり、それと共に花輪も飾られていた。
焚火台の周りでは、町の者や外からの者が火を囲うようにして輪を作り、それぞれが軽くステップを踏んでいる。女神に踊りを捧げる神官――の真似事か?
それでも、祭祀の一環ではあるのだから許されるだろう。感謝の意は示しているのだし。
(……そもそも、今回はそれが目的ではないしな。)
教会側の祭祀台に置かれている果物や花などを横目に、マルチェロは町中を歩く。
そう、別に行事の照合をしに来たのではないのだ。
今日この町に足を運んだのは、ここの教会に関する不穏な噂を耳にしたから。そのついでに改めて決算の報告書を精査してみれば、微かな、それでいて明確な“用途不明金”が見つかったので、こうしてマルチェロ自らやって来た。自身の目で不備を見つけてしまったが故に。
確認が甘かった。
部下のミスは上司である自分の責任だ。
だから、己で片付けることにした。それだけのことだ。
……もっとも、以前の自分ならば、こんなことは部下に負い被せて不手際を隠ぺいし、その上で町の教会を罰していただろう。
それが――いつからだろう。こんな薄っぺらな正義感にも似た行動をとるようになったのは。
いまさら神にゴマをすったとて、軽くなるのは気分だけで重ねた罪ではないというのに。
ただの暇潰し。安い偽善行為。
それだけだ。――故に、“何か”に影響されたわけでは決してない。
(……ああ、そうだ。誰が影響など――)
自嘲を浮かべながら、大通りを抜けた先――少し開けた場所に、“それ”はいた。
◇ ◇ ◇
薄い黒のヴェールがかかる、紺青の空の下。
人気のない町角の片隅には外灯のぽつねんとした光しかないそこに、その人影は静かに立っていた。
精霊を思わせる、湖面に映る月影のような幻想感。そこに閉じ込められた静謐を前にして、マルチェロは誰何の言葉を失う。
声を掛けてはならない。その透明感が濁るような気がしたから。
存在を勘付かれてはならない。
その気配を掴まれたら最後――逃げることは許されない。
だからこそ息を潜め、さり気なく……なるべく音を消し、その場から立ち去ろうと一歩後ろへ下がったのだが、足裏が砂利を踏んでしまい――相手が振り返る。
闇色の瞳に捉われて。
「……マルチェロ。」
夜の闇に溶ける声。相変わらず妙な艶のある低音で、身裡の奥に眠るものを引っ掻いてくる。
「……、何故お前がココに居るんだ。」
相手に目視されたので、後退する手段は取り消した。
大国の兵士とはいえど、相手は一介の兵士長でしかないのだ。「逃げる」など、馬鹿馬鹿しい。
「この辺りは、お前の警備範囲ではないだろう。何をしていた。」
越境行為について暗に示してみれば、相手は僅かに目を伏せて口を開く。
「……花を売っていた。子供と。」
「花を? お前がか?」
「ああ。」
どういうことだと説明を求めれば、内容を掴むのに時間は掛かったものの、どうにか要約した内容いわく、「病に伏した母親の薬代を稼ぐために祭りに来ていた兄妹の手伝いをしていた」とのこと。
「知り合いだったのか」と問えば「いいや。知らない子供たちだ」と言う。
なるほど、偽善者はココにもいたようだ。
下方に落ちている相手の視線を追えば、夜が落とす影で最初は気づかなかったが、その手には花の冠が握られていた。
(……冠?)
造形の具合から、それは手製のものに見える。熟練者の細工ではないが、丁寧に作られている為か、一見すると市販の商品とそう変わらないように見えた。製作者は、エイトの話に出て来た兄妹か。
だからか、武骨な兵士の男が手にしていてもそう不似合ではない。
しかし、なぜ花冠を手にしているのかが気になった。
「そんなものを手にして、町の隅で何をしている。」
まさか夜警ではあるまい。
「子供たちから“手伝い賃”を貰い損ねて、落ち込んでいたのか?」――そんな皮肉を口にしてみれば、相手はマルチェロに視線を合わせ、眉根を顰めた。
おや。気分を損ねたか、女神殿?
嘲笑に似た笑みを口元に浮かべたマルチェロを、さてどう思ったのか。
無表情の氷の相貌に変化はない。――変わったのは、相手が纏う気配だった。
「……これは、礼だ。純粋な。」
感情の籠もらない低音には、微かな怒気が混じってはいなかっただろうか。
すうっと、冷たい何かがマルチェロの首筋を撫であげる。
周囲の温度が一段階下がった気がした。
「それに、俺が勝手に手を貸したことだ。俺の奉仕は、金銭に値しない。」
花冠を手にしたエイトが動き、距離を詰めてくる。月光を背負って近づいて来た女神は、そうして冷え冷えとした眼差しでマルチェロを見据えて言葉を吐く。
「俺は、願いを受けて動いた。――それだけだ。」
女神は祈りを叶える為に降りてきた。
糧は願い。対価は祈り。
金など――人の欲など、興味はない。
咎めにも憐憫にも似た、声の宣告。
長い睫毛に縁取られた闇色の深い瞳に見つめられ――心を覗かれた気がして――マルチェロは、ごくりと唾を飲む。
ああ、この在りようは覚えがある。
昏い欲望に淀んだ教会において、ただ一人、清廉だった人。
“儂は、お前たちのような子供が悲しむことのない世界を願っているよ。”
遠い過去からの残響は、養父の声に似ていた。
利益など求めず、身寄りのない子供たちにただ優しく、汚れなき祈りを捧げていた。――残念ながら、その祈りはどうにも神に届かなかったようだが。
「なぜだ。なぜ、お前は――」
闇の中でも、そう美しい?
「対価はとるべきだ。でなければ、お前は安く使われ、容易く使い潰されるぞ。」
光とて、闇が無ければ存在できない。
だが、この男は両方とも内包している。
何度も死とその影を目にしてきた筈なのに、なのにどうして養父のように代償を求めないのだろう。
エイトはというと、その問いには答えず、ただ水面に浮かぶ月のように静かに目の前にいて、マルチェロが零す言葉を聞いている。
まるで告解だ。
そのせいだろうか……マルチェロは促されるようにして、月明かりの下で話し続ける。
「真面目なものほど馬鹿を見る。ここは、そういう世界だ。だから俺は、正直者など愚者と思っている。」
「弱者に至っては、強者の格好の獲物でしかない。食らわれ、消えて行く。……抗おうともせず、その運命に従い、そして消えていく。」
「金は権力を得るのに必要だ。俺は、お前のように無償で奉仕などしない。人の為? そんなものは偽善だ。ただの独善だ。」
飲み込んでいた毒を撒き散らす。
吐いても吐いても零れてくるのは、やはりそういう世界に長い間いたせいか。
汚れはこの身に深く染み込み、この心に不愉快に食い込んで消えない。ただただ積もり、闇の色を濃くするだけ――。
「お前の中にも、美徳はある。」
静かな低音の声が、半ば正気を失いかけていたマルチェロの独白――正しく途中まで毒に溺れていた――意識を、引き止めた。
男にしては白い手が、マルチェロの両こめかみあたりに触れている。
それは微風が如く細やかな手つきで――氷の女神にしては柔らかな動作で動き――彼の頭上、そっと載せられたのは花冠。
目を瞠るマルチェロに、今度はエイトが言葉を吐く。
「貴方に祝福を。」
「――っ……。」
子供じみたことをするな、と。
叱責してその手を打ち、花冠を落とすのは簡単なことだった。
けれど触れている指先の、その熱から。
目の前で絶佳の微笑を浮かべる、その男から。
なぜだかどうにも、離れがたく。離れる気には全くならず。
「……これは何かの暗喩か、それとも皮肉か?」
ようやっと反応を返せたのは、エイトが離れて少しの距離を空けてから。
触れていた箇所の熱が冷めていく。それをどことなく寂しいと感じながら問いかければ、エイトは僅かに首を傾げる仕草をした後で応じた。
「祝福は、必要では無かったか。」
「俺は神殿騎士だぞ? ……神に仕える身だ。祝福を受けていないと思うのか。」
「そう、か……ならば、変えよう。」
この男の思考など常人は到底読めず、更には突拍子も無い行動をとってくれる。
ほの白い影が揺らめいたかと思うと、それはマルチェロの右手を捉え――持ち上げたその甲へ落とされたは口づけ。羽のように軽く、一瞬ではあったが、それは確かに口付けであった。
「――なっ、にを、……お前はいったい何を!」
思わず大きな声を上げれば、長い睫毛を一つ瞬かせて相手が言う。
「敬愛を。……祝福の、代わりに。」
なぜそうなる。何を思ってこうなった。
色々言いたいことはあった。あったが、恐らくは説明しても相手には伝わらないだろうという気がして、マルチェロは大きく溜息を吐くに留める。
目の端に映る、軒先に吊るされた外灯。
その中では小さく火が燃え、灯りに釣られた虫が飛んでいる。
(今の俺は正しくアレだ。)
月光に引かれて近づいた先に待っていたのは、凶悪な誘惑。
堕落ではないが、さりとて信仰の類でもない。
辛うじて灰にならずに済んだが、これ以上ここに居るのは危険だと己の本能が告げている。
――不正監査は、後日改めよう。
不正より先にこちらがこの女神に暴かれては堪らない
「……夜も遅い。俺は戻るが、お前はどうする。最後まで祭りを見ていくのか。」
「いや。俺の用は、済んでいる。あとは、帰るだけだ。」
「そうか。ならば、途中まで同道しよう。お前は目を離すと何をするか分からんからな。」
「俺は何もしない。」
「言っていろ。――そら。行くぞ、女神殿。」
「俺は……女神じゃ、ない。」
背を向け、からかい交じりの言葉を吐けば小さな声で抗議されたようだったが、勿論気には留めず、マルチェロはさっさと歩き出す。エイトが大人しく後ろから付いてくるだろうと思って。
ああ、この町に立ち寄らねば良かったと。
頭部に乗せた花冠の存在をすっかり忘れたまま、マルチェロは女神を引き連れて祭りを後にする。
手の甲に残る熱の幻には、見ない振りを決め込んで。
灯りに誘われた、蛾の如く。
触れた途端に落ちる、花の如く。
花冠を、貴方に。