マイエラ修道院の近郊。新たに建てられた屋敷に、エイトはいた。
時間が遅すぎたことと、そしてまだ事件の処理が終わっていないこと、更には腕の立つ者の管理下にあった方が身の安全も保障しやすいとあってこの屋敷で一泊することになった。
職権乱用ではない。――と、断言できるかどうかはいまひとつ怪しいところではあるのだが、その辺りは彼らの良心というか、良識というか、そうしたものにかけるとしよう。
まあ、狂信が故に女神を傷つけたりはしないだろうが。
とにもかくにも、そんなマイエラ兄弟の邸宅において。
湯浴みをしてすっかり身を清め終えたエイトは、広いベッドの上にいた。その両脇に、二名の男を従えて。身の安全を考えたら、これが最善の行動だ、と言われたので素直に同衾に応じているわけなのだが、エイト自身はここに正当性があるのかは分かっていない。
「しかし、お前が誘拐されたと聞いた時は驚いたぞ、エイト。」
彼の人の、右隣。
ベッドボードに身を凭せ掛け、その膝の上に並べた書類に目を落としながらマルチェロが言った。
エイトは、「ああ。」と無表情に首肯する。
「俺も……驚いた。」
「はっ。嘘を吐け。」
そんな素振りは全くなかったではないかと揶揄する笑みを浮かべて返し、マルチェロは書類をめくる。
記載されているのは、本件の犯罪者たちの処分についての事柄だった。
まず、雇われた男たちは、マイエラの地下牢へ。
次に、元凶である成金貴族。
これに関しては、その余罪を調べたところ非常に悪質なものが湧いて出てきた上、尋問の際も酷く悪態をついたので、特等室へと案内することになった。
孤島である煉獄島の、地の底。
深い闇の奥に存在している牢獄にて、永のバカンスにご招待だ。
返済に掛かる年月は、さて幾らだろう。
重すぎるとは思わない。
我らは、神に仕える神殿騎士。――彼の女神に手を掛けようとしたのだから、罪が重くなるのは当然だろう?
マルチェロは、書類に向けていた目を隣のエイトに移す。眉間に皺を寄せてその美しい横顔を見ていたが、視線を落としたところで皺は更に増えることになった。
彼の人の、左側。
その腰に腕を回し、寝そべる銀色の髪の男。両の目は閉じており、マルチェロと同じように眉間に皺を刻みつつも、エイトに身を寄せている。まるで甘える猫のように。
「そこの不埒者。いい加減、離れんか。」
書類をベッドサイドのテーブルへひと投げして叱責すれば、男が身動ぎして目を開けた。そして前髪の隙間から、億劫そうにマルチェロを見る。
「……今はもう業務時間外だ。」
「そいつから距離を置け。暑苦しい。」
「何だよ、その横暴な理由は。なー、エイト。お前は別にいいよな?」
寝そべったまま、抱き着く相手を見上げるククール。
自分の造形は理解していたので――嫌でも知らされた――それで媚態を作り上げ、相手の欲に取り入る眼差しは昔よく使っていた。そのほうが、ずっと早く、軽く済むから。
しかしながら、この氷の美貌の前では培ってきたそれらは何の役にも立ちはしない。……役立たせたくもない。
それに、今は。
いま、この時だけは。
ただ純粋に……この存在に、触れていたい。
「……俺はお前に触れても良いよな?」
相手にそう問いかけたククールは、自分がどのような顔を見せているか気づいていない。
頼りない子供のような声で、どこか不安げな眼差しでいることなど知らず。反対側に座っているマルチェロに見られていても構わないようで、ただエイトだけをその目に映して待つ。
「……。」
女神様はといえば、氷の表情で縋りつく“子供”をじっと見下ろしていたが、一度肩越しにマルチェロを見遣り――何か言おうと口を開いたが、閉じ――ククールに視線を戻して言った。
「もう触れているだろう。」
「え――」
現状をそのまま伝えただけの言葉に、ククールは目を丸くする。
確かにエイトの言う通りではあるのだが、けれど自分が欲しかったのはそんなものではなく。
「そう、だな……。」
気落ちした様子で、視線を伏せるククール。
勝手に期待しておいて、そのくせ思い通りではなかったから、身勝手にも落ち込んでいるのだ。
下らない。
そんな自覚があるものの、それでも今は救いめいたものを求めていた。
どうやら自分は、あの地下室の光景と、囚われていた兄弟とを見て、色々参っているらしい。
情けない。
溜め息を吐き、それでもエイトに抱き着いたままぼんやりしていれば――ひやりとした何かが、二の腕辺りに触れるのを感じた。
それはエイトの手で、視線を上げれば氷の美貌を持った相手と目が合う。
エイトはククールをじっと見つめていたが、やがて僅かに首を傾げて――微笑む。
「お前が触れるのは、罪にはならない。……だろう?」
氷の低音が柔らかく聞こえたのもまた、自分の身勝手な妄想だろうか。
ククールの二の腕に触れていたエイトの手が動き、今度は、そっと前髪を撫でる。
「それに……お前と、あの貴族は違う。俺の事を気にしているのならば、大丈夫だ。」
「……っ、……っ。」
エイトには、幼少時代の暗い思い出については何も明かしていない。
汚濁したあの世界に浸っていたこの身のことも、きっと知らないだろう。
でもエイトは言った。
大丈夫だと。
ああ、そういえば地下牢でも言っていた。――教えてくれていたじゃないか。
大丈夫だ、と。
「なあ、エイト。」
「なんだ。」
「……しばらく、そうしてて。」
「?」とエイトが首を傾げるのでククールは笑い、髪を撫でている白き御手に触れて補足する。
「これ。……俺も、お前に触れられるのは大丈夫だから。」
「……そうか。……分かった。」
エイトが頷いたのを見て、ククールは妙な安心感と共に目を閉じる。
そうして己の髪を梳く指の心地よさを感じながら、ゆっくりと、緩やかに、眠りの海へ落ちていく。
地下牢で泣いていた子供は、もういない。
この手にきっと救われたはずだから。
◇ ◇ ◇
「悪いな、我侭に付きあわせて。」
ククールがすっかり寝静まったのを見計らうかのように、マルチェロが声を掛けた。
エイトはククールの髪を撫でるのを止め、今度はその背中を軽く叩く行為に切り替えながら、会話を繋ぐ。
「いや。悪いことではない。……と、思う。」
どこかぎこちない返答に、マルチェロがクッと笑う。
「男に抱き枕にされた上で、そう言うのか。何とも寛大なことだ。」
ひどく穏やかな顔をして眠る弟の整った顔立ちを一瞥し、それから不意に視線を逸らしてマルチェロが呟く。
「だが、まあ、そういうことは程々にしておけよ。それは甘やかされ慣れていないから、つけあがる。」
「……つけあがると、何かあるのか。」
問われたマルチェロがエイトに流し目を送り、口端を持ち上げる。
「さあ。――どうなるんだろうな?」
冷笑に似たその笑みに、どこか蟲惑的なものを混ぜこんで仕掛けるは、挑発。
ああ、これは嫉妬ではない。
ただ単に、自分もふざけてみたくなっただけだ。
猫のようにしなやかに縋りつき、子供のように素直に甘えて見せる弟が急に羨ましくなったからでは、決してない。
「慈悲を与えた人間がどうなるか……その身で知ってみるか、女神殿?」
酷薄な声音でそう言って、マルチェロが上体を捻ってエイトとの距離を詰める。
元々、そこまで広くはないベッドの上。大の男が三人もいれば、大きく動かずともその空白は容易く埋まる。
「なあ……どうする、エイト?」
囁くような声音で話しかけ、無表情でいる相手に自ら触れる。
彼の白い頬に手を添えて自分の方へ固定すれば、その氷の双眸が己だけのものとなる。
まるでそれが自分のものになったような、一瞬の錯覚。
子供の自分は、あの遠い過去に置いて来た。
甘えなど何の役にも立たない。むしろ邪魔になるだけだ。今更、誰かに弱味を見せるなど――……。
「――大丈夫だ。」
「――っ!?」
静かな声にハッとする。それは先程、ククールに掛けた言葉ではなかったか。
「……それは、あいつに対しての台詞だったろう? なぜ俺に――」
「――同じだろう、お前も。」
マルチェロが言い繋ぐよりも早くに言葉を攫うと、エイトは右手を伸ばし、その体を軽く抱き寄せた。
「なっ……に、を――!?」
ぎょっとして身を強張らせた男の背を、宥めるようにぽんぽんと叩く。
「お前も大丈夫だ、マルチェロ。」
どこか柔らかな低音の声が、甘えてもいいのだというように囁いてくる。
馬鹿なことを。
何を馬鹿なことを。
「慈悲は大概にしろ、と言っただろう……、……つけあがるぞ。」
エイトの肩口に寄りかかるようにして頭を乗せたマルチェロの耳元で、氷の声が答える。
「お前も、罪にはならない。だから、気にしなくていい。」
「……馬鹿者が。」
この女神殿は、どうしてこうも人を堕落させるのが上手いのか。
実に甘やかに抵抗を削ぎ、緩やかに束縛してくれるのだろう。
女神が如き美貌を持った、悪魔が所業を思わせる闇色の君。
ああ、どこまでも狂わせてくれる。
狂おしい程に焦がれ、焼けつく先は煉獄か。
ああ、このまま落ちるのも悪くはない。
背中を叩くリズムの良さに引き摺られ、マルチェロの意識はいつしか揺蕩う眠りの中へ落ちていく。
温かい存在に寄りかかるその姿は、どこか主人に甘える大型の獣に似ていた。
右にマルチェロ、左にククールを置いて、エイトはそうしてしばらくの間、二人の背中を叩いて寝かしつける動作を続けていた。
やがて疲れがきて、自身もベッドに沈み込むまで。
――そんな翌日、エイトは目を覚まして驚くことになる。
なぜなら、美形兄弟が先に起きていて、自分を覗き込むように眺めている光景を見る羽目になったので。
しかも片方ずつ手を握られていたりもして、心の中で盛大に叫んでパニックになった彼の女神の正体などはあいにく知られることはなく。