そういえば種の振り分け次第では弓の名手にもなるんだよなあ、と魔が差したが吉日。
焦点当たるほうには厄日でもありますが。
そんなクク主続き。
ますます泥沼になるような気がしないでもない流れに。
反応や感想が原動力になっています。ありがとうございます。
はっ、はっ、と急いた呼吸音が静かな廊下に響く。
音の主は、満身創痍。
身に着けているものといえば、白いシーツが一枚。自身の体に巻き付けるようにしているが、ただの寝具でしかない為に全身を包み切れてはいない。
けれど、男にはそれで十分だった。
元々の服は剥ぎ取られ、そのまま羽を毟られた鳥のごとく扱いを受けた身に与えられるものといえば苦痛と怖気と狂気だけ。
そんな中、このシーツだけが側にあった。清潔さを保つためもあってか、常に入れ替えられているシーツはいつしか男の――エイトの拠り所となっていた。
今は何も身に着けない肢体の保護として役立ってくれている。
「ここは……さっきも、通った……か?」
よく似た構造、よく似ている外観。
無人の廊下は他に人の気配がなく静かで、果てしない静けさがのさばっている。
トロルの迷宮にどことなく似てはいるが、魔物の気配はない。それに少しの安心感を覚え、けれどもすぐに気を引き締める。
ここはまだ煉獄。
美しい天使が所有する失楽園。
銀色の長い髪を持つ、綺麗な男が支配する箱庭。
(……っ)
その天使の顔が、声が脳裏に浮かんだ瞬間、込み上げるものがあった。
痛み。悲しみ。ありとあらゆる痛苦が爪先から背筋を駆け上がる。
ここへ来てから何度吐いただろう。
何度注がれ、何度突き返しただろう。
こんなことが我が身に起こるとは、想像もしていなかった。知らず親友を傷つけたのかもしれない罰としてのこの世界は、それでもどうしようもなくつらい。
嫌われて、酷い目に遭わされて。
それでもこの胸の奥、僅かな戸惑いの向こうにはまだ捨てきれないものがある。
すっかり摩耗し、欠片ほどになっているが小さくも大切なひとかけら。
この感情は、親友への祈り。いつしか正気へ返り、鍵を開けて解放してくれるだろうという希望からの――。
(夢を見ている場合じゃない)
エイトは一度、ぎゅうっと胸を――心臓の辺りを――押さえる。
振り返ってはいけない。
――振り返るな。そこに親友はいない。
は、と息を一つ吐いて落ち着きを取り戻した後は、いつの間にか止まっていた足を動かして、ひとり体を引き摺るようにしながら廊下を進み始める。
ゆっくりと、だが確実に前へ。
全ては勘。
生存本能を働かせ、何かに導かれるようにして前に進む。
◇
何度か錯覚を起こし、何度も諦めかけたが、その都度自身を鼓舞して進んだ。前だけを見て。
エイトはすっかり疲労した足を引き摺り、倒れこみそうになる体を前に進む櫂として使いながらひたすら進んだ。
はたして苦労は報われる。
やがて辿り着いた、一つのドア。
それがただのドアではないことは、大きな錠前が掛けられていることで窺い知れる。
その厳重さ故に、これこそ外へ出る為(繋がっていると想定した上で)の出入り口ではないかと思えた。思いたかった。
錠前には鍵が掛けられている。どうしたものかと周囲へ視線を走らせれば、鍵らしきものが側の壁から生えているフックに吊り下げられているのを見つけた。
位置的に、エイトの身長より少し高いくらいか。
部屋にあったランプや、隅に転がっていたロザリオを持ってくればよかったかと後悔するも、もはや引き返すつもりはない。
それに、背伸びをすればぎりぎり届きそうでもある。
エイトはきゅっと唇を引き結ぶと、爪先を、手を伸ばし、頭上に見える鍵に指先が触れた――その時、風を切る音がした。
ダンッ!
鍵に触れた右手の甲を貫いたるは、銀矢の一閃。
一筋真っすぐ貫通したそれは、手の甲ごと矢にてエイトを壁へ縫い留めた。
「……っ」
エイトは肩越しに正体を確認し――エロスの弓を構えた美しい天使がいたので――すぐに視線を逸らす羽目になった。
それ以上、見ることができなった。
ああ、自分は脱走者であり、あれはその看守。
振りることなどできやしない。
そのままじっと息を詰め、手の甲から伝わる激痛に耐えていれば――真後ろに人の気配。
「つかまえた」
甘い声が耳の奥をくすぐる。
それと同時に、ぎゅうと抱きすくめられた。
「俺に黙ってどこに行こうとしていた、女神様?」
含み笑う声の奥には、冷たいものが混じっている。
体に巻き付いた腕が動き、その左手がひたりとエイトの首に触れた。
「悪い子だな、エイトくん。……これはお仕置きしなくちゃあな?」
きゅっ、と。首に宛がわれていた背後の主の左手が、軽く締まる。締め上げる。柔らかに。
エイトは、はく、と口を開閉させて戦慄く。我が身に降りかかる仕置きを想像して。
強張る体、その首筋に吐息を掛けた背後の男が――ククールが、首を掴む手で軽く顎を上向かせて笑う。
「……悪い子同士、仲良くしようか」
遠い世界では、救世主が四肢に釘打たれて磔にされたという。
ああ、ここにも美しい標本のような磔が一つ。
シーツを剥がす代わりに裾をたくし上げることが、せめてもの慈悲。
「や、め……っ」
けれど赦しを乞う声は聞き入れず、そのまま背後から貫かれた。
地に足がつかぬ状態では碌に拒絶も出来ぬ体は、そのせいかいつもよりその杭を深くまで飲み込んでしまい、自らを痛めつける枷となる。
「――ぇっ、う」
内臓の奥を刺激されて、いつものように殺しきれない声が零れるのを自分の耳で聞きながら、大きく揺さぶられ、突き上げられる。
悲鳴は聞こえない。
赤い絶望の中、エイトは静かに銀色の星を見つめていた。
◇ ◇ ◇
――空っぽの檻を見た時は、心臓が止まるかと思った。
シーツに包まって眠っているか、起きてもどこかぼんやりとしてベッドの上に無気力な様子でいるのが日常だった。
頭垂れた白い花がごとく。蒼褪めても美しいまま、そこでじっとしていたのでもう動く気力は、逃げるつもりはないのかと思って安心していたのもある。
それに、体力がなくなるまで抱いて始終疲労状態でいるようにしていたので、大丈夫だと考えて――油断した。
相手は大国トロデーンの兵士長を務め、あらゆる困難を乗り越えて闇の神を打ち滅ぼした強靭な男であることを、ククールは空になった室内を見て今更ながらに思い出したのだった。
辛うじての保険をしておいて良かった、と。
竜殺しの拘束呪に混ぜた追跡痕を辿りながら、ククールはどす黒い感情があふれる胸中を自ら宥めなければいけなかった。
騙された。
騙された。
騙されていた。
血の色をした思考が幾度も浮かんでは消え、さあ見つけたらどうしてやろうかと手にした武器に視線を流し、追跡痕へ戻し、ゆるりと笑う。
本当に困った女神様だ。
手を焼き、胸を焦がし、見事に嫉妬で狂わせてくれる愛しの存在。
――だからこそ手放せない。
それでこそ繋ぎ甲斐もあるというもの。
だからこそ縛め、閉じ込め、食らい続けている。冷たくも甘い禁断の果実はそれこそこの楽園に相応しい。
――それにしても、とククールは呟く。
「こんな手段で俺の気を惹かなくても、俺はお前のものなんだぜエイト」
喉奥で笑い、追跡の先にいる獲物に向かうククールの目は狂気の青でありながらも恍惚たる光を宿していた。
そして遂に、獣は一つのドアの前で探していた存在を見つける。
見つかってしまうのだ。
上に向かって伸ばされた白い手が、鍵に触れる少し前で止められたのは自分でも上出来だと褒めたくなったほど。
エロスの弓の一射は「愛」を縫い留める。
零れる前に、見事その場で塞き止めて。
弓を床へ置いて、美しい標本がごとくそれへ歩み寄る。
心ではなく距離としてのものを。
痛みか驚きか、硬直して動かなくなった体をそっと近づいた背後より抱きしめれば、更にぎゅっと小さくなるような感覚があった。
怯えではなく警戒から身構える体は本当に愛しく、心の奥に潜めていた加虐心を煽ってくれる。
「どこへ行こうとしていたんだ?」
優しく訊ねるも、答えはない。静かながらも浅い呼吸音を聞きながら、ククールは更に言葉を重ねる。
「悪い子にはお仕置きが必要だな」
顎を掴んだ手を動かしてその顔を窺い見るも、既に覚悟して目を瞑ったそこに、目新しいものはない。
美しい氷の顔がそこにあるだけ。
涙ひとつ見せない女神。
見えない境界線。
それこそが真の聖域でもあるかのように、この男は散々汚しても堕ちてこない。今も、まだ。
これこそが真なる本質。氷の水晶は常に煌めき、消えぬ炎を宿しているそれは、それこそは。
――りゅうのたましい。
いっそ魂も食らわせろ。
心の中で毒づいて、ククールは血の匂いのする饗宴をひとり食らい続けた。
けだものが如く。
そこに人の有様はなく。
[1回]
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