深夜帯の勤務には、気をつけていても勝てないものがある。
それは――。
(……まずい。眠い。)
静かな夜の時間。二人きりしかいない広い執務室で、エイトは思わず出掛かった欠伸を噛み殺す。
一つ間を置いた隣には、顰め面ともとられない厳格な表情が常の法皇様がいて、黙々と書類に目を通している。
正に、黙々と。無駄口などは叩かない。
エイトも集中すると沈黙するほうなので、それは一向に構わないのだが――時折、あるものに襲われることがある。
静寂すぎるが故に訪れる、悪魔。
足音無く急襲するその魔の名前は――「睡魔」。
夜勤に合わせて睡眠時間を調整し、体調を整えていても眠くなるのでなかなか防ぎようがない。
(参ったな……結構、ぐらぐらする。)
少し休憩をとって、コーヒーでも飲んでおくか?
いやしかし、今回は書類の量が多い。ここは手持ち分を片付けてから、十数分ほどの仮眠をとる許可を――。
「――コーヒーでも飲むか?」
「……、……え?」
睡魔と戦いつつ、ぐらぐら揺れる意識の中で様々な作戦を立てていた時だった。
低いながらも艶のある声に問われ、エイトは僅かに覚醒する。顔を上げ、隣を見ればそこには顰め面を崩した法皇様――マルチェロが、穏やかな苦笑を浮かべていて。
「眠いのだろう? ここで一度、休憩にするか。」
「あ、……ごめん、俺――」
「俺が丁度、何か飲みたい気分になったんだ。」そう言うなりマルチェロは目を落としていた書類に押印すると、脇に片付けて腰を上げた。
エイトはそれを半分ぼんやりと見つめていたが、すぐにハッとなる。
「マルチェロ、それなら俺が用意する――」
「つい最近、良い豆を貰ったところだ。お前に棚の場所を説明するよりも、俺がした方が早い。」
中腰になったエイトの行動を言葉で制し、それよりもお前はソファに座って待っていろ、とだけ命令すると、マルチェロはさっさと部屋から出て行った。
後に残されたエイトは、ドアが閉じてから天井を仰ぎ、はあー、と長い溜息一つ。
「……法皇になってから丸くなったよなあ、マルチェロって。」
そして、何だか優しくなった。
いや、元々そういう性格なのかもしれない。
いつだったか、ククールに少しだけマルチェロのことを聞いたことがある。――自分が腹違いの弟だと判明する前は、優しい人だった、と。
歪んだ欲に狂わなければ、そうなのだろう。事実、現在のマルチェロは恐ろしく有能で、腐敗していた聖職者とその組織をあっという間に粛清……もとい、清掃してしまった。
血生臭いことも、後ろめたいことも無い方法で。ああ、そういう手段はとらせないよう、エイト自身が見ていたからそこは確かな真実だ。
――「どうせ俺は信用ならんだろう? だから、お前が俺を見張っておけ、エイト。この地位に俺を就かせた、お前自身がな。」
マルチェロ自らがそう言い出した時は、驚いた。こっそり監視するつもりだったのが、大胆にも相手側から提案されたのだから。
お前が俺を見張れ、と彼のほうから言い出すとは思わなかった。――思ってもみなかった。名前を呼ばれて、指名までされるとは。
あの時から、エイトの中でマルチェロの印象が少し変わった。相手の能力の高さ、杖からの支配を自己で打ち負かすほどの精神力と、それから――不器用な優しさを持っていることに気づいた。
――そうして気づかされた。マルチェロに対する感情の変化に。
(まあ……なんだかんだで最初は世界地図をくれたし、時々、助言ぽいのもあったりしたしで、あまり嫌悪感は無かったんだよなあ。)
仲間たちは初対面で散々な目に遭ったのもあってか、かなり良い感情を持っていなかったが、それでもマルチェロが法皇になって少ししてから得た功績を目にして、今ではそれなりに友好的に見ている――と、思う。
ククールはまだ幾らかのわだかまりだか葛藤らしきものだかと戦っているようだが、彼らの兄弟仲は改善している――と、思いたい。
エイトはソファに移動して腰を落ち着け、背凭れに深く身体を預ける。
(あー……なんだろうな、この感じ。)
友情でも芽生えているのかと思いかけるも、それに当てはめようとすると、何だか胸がもやもやした。
「エイト」と、あの妙に艶のある低音で名を呼ばれると、妙な気持ちになる。
(声が良いんだよなあ……性格はちょっとアレだったけど、今はちょっと厳しいくらいで、むしろ仕事馬鹿っぽいところが俺と一緒で……)
目を閉じながら考え続けるのは、マルチェロのこと。それから、胸中のもやもやの正体のこと。
(多分、だけど……俺、もしかするとマルチェロが……)
そこまで考えたところで、考えるのを止めた。
確定させてしまったら、駄目な気がした。なぜなら仕事はまだ残っていて、マルチェロが戻って来たらどういう顔をすればいいのか分からなくなるからだ。
(この勤務が終わって帰ってからまとめよう、うん。それがいい。)
エイトは軽く自身の両頬を叩くと、マルチェロが戻ってくるまで気分を休ませておこうと目を閉じた。
近づいてくる、微かな足音。しばらくして、ドアの開く音がした。
「遅れてすまんな。豆を零してしまって、その片付けに少し時間が――うん?」
説明をしながら部屋に入ってきたマルチェロは、ソファに沈み込むようにして座っている青年を見つけて、眉を顰める。
「エイト? おい、どうした。」
マルチェロが足早に近づき、手にしていたトレイをテーブルに置く。
疲労から失神しているのかと思い、隣に座り、具合を確かめようと手を伸ばしかけたところで首を傾げた。
規則正しい呼吸。力の抜けた体。
「……もしや、眠っているのか?」
顔を近づけて見るも、エイトが特に目を開ける様子はなく、血色も悪くはない。
そういえば今回は珍しく疲れているようだったな、と部屋を出て行く前のエイトの様子を思い出す。
「鬼の霍乱――いや、こいつも普通の男だったな。」
穏やかながらも平凡で無害な青年に見えてその実、意外と曲者めいた性格をした優秀な大国の兵士長。
実はとんだ食わせ物だったと気づいたのは、いつの間にか自分が法皇という地位に就かされていた後の事だった。
「なぜ俺を」と問えば、相手はにっこり微笑んで「貴方が一番適任だと思ったので」と答えた。
「また俺に世界をくれるのか?」と挑発すれば「世界の半分だけなら」と妙な具合に躱された。
ふざけた男だ、と思った。
だが一方で、面白い男だとも思った。
世界を敵に回しかけた人間に、とんでもなく高い地位を与えるなどとは誰が考えよう?
誰が実行してみせよう? 反対した人間も多くいただろうに、その不平や不満などはいつの間にかすっかり聞こえなくなった。
「貴方が真っ当に務めたからですよ。正当な評価が生まれたんです。貴方自身の手で。」と、またにっこり笑顔で言われた時には、もう「当然だろう」としか感想が出なかった。自惚れからではなく、何だか納得してしまったのだ。勿論、その境地に至るまでにはそれこそ膨大な量の執務と問題とがあったが、それら難事を全て片付けた今となっては、むしろ認める以外にないだろう。
この結末を。その成果を。
誰も彼もが認めることになった。……マルチェロ自身ですらも。
(してやられた、と言うのだろうな。)
当のエイトが何を思い、何を考えているのかは分からない。
だが、マルチェロは相手に抱く感情を改めていた。
気に食わない男。けれども、今では片腕に近い存在。
生真面目な彼が唯一、不真面目にしている箇所――その長い前髪をそっと手の先で払うと、長い睫毛に縁取られた目元が露わになる。
兵士にしては泥臭くはなく、躾のいい――どことなく王族然とした雰囲気のある――その双眸。目を閉じている今は、少し幼く見える。
「“これ”は、同性に抱く感情では無いんだろうがな――」
独り言のように呟くと、相手の顎を軽く持ち上げた。
その反動で、微かに開く唇。エイトが目を開く様子はない。
ああ、いま目を覚ましてくれれば止められたのに。
「無防備なお前が悪いんだぞ」と掠れた声で囁いて、マルチェロは自分のものをそっと重ねた。
開かれた唇の間を縫って舌を潜り込ませ、相手の口内を探る。そのまま相手の舌に絡めれば、水音らしきものが耳朶を打つ。
「……っは。」
二、三度そうしてから、唇を離した。
名残惜しかったが、一番つらい執務を手伝いに来てくれる相手の寝込みを襲うのは流石にマズいと理性が押しとどめた結果である。……もっとも、充分に襲ったわけだが。
濡れたエイトの唇を指先で拭い、マルチェロは苦笑を零す。
「……もう少し寝かせておいてやるか。」
それと、自分は夜風に当たって熱を冷ましてこよう――エイトの肩に自分の上着を掛けやると、マルチェロは重くなりかけた腰をどうにか上げて一人テラスから外へ続く庭先へ出て行った。
マルチェロの気配がなくなり、静かになった執務室。
目を閉じていたエイトがそのままゆっくりと横に倒れ、両手で顔を覆った。
(びっ……くりしたああああああああ……!)
体を蓑虫のように丸め、静かに悶える。
目を閉じて意識を休ませてはいたが、実はしっかり起きていた。マルチェロが戻って来たら素直に目を開けて、応えるつもりだったのだ。
だが、マルチェロが間近に座り、心配そうな声で……甘く穏やかな声で独り言を言い始めたものだから、何だかちょっと聞き耳を立ててみたい気分になった。
その結果が、このありさま。
まさかマルチェロの方からキスをされるとは。しかも寝込みを襲われる形で。
実際は狸寝入りではあったが、それでも、だ。
(ちょっと待て、なんで、マル、マルチェロ、俺に、あんな……っ)
躊躇いのないキスだった。舌が侵入してきたと思ったら口内を貪られるように動き、しかもそれが自分のものに絡んできて散々に弄られるとは。
初心者には、なんとも刺激の強いキスだった。
まさか自分の狸寝入りが気づかれていて、からかう、もしくは窘める為にあのような行為をして来たのではないかと一瞬考えたが、後にマルチェロが零した呟きを聞いた限りでは、そうではなかった。
あれは、好意以上のキスだ。
(待って、ほんと待って……心の準備というか決意というか、そういうのはこの仕事が終わってから自室でゆっくり考えて、悩んで、それから認めようと思ってたのに……っ!)
悩む前に、淘汰された。
認める前に、確定させられた。
相手から先に、所有印をはっきりと刻み付けられて。
(待って、こんなのズルい、あああもう何だよ、もう――……!)
マルチェロの馬鹿―っ、と心中でのみ叫び狂い、エイトは暫くの間ソファの上で蓑虫状態のままもじもじと悶える羽目になった。
その後、頭を冷やして室内に戻ってきたマルチェロが見たものは、自分が請け負った仕事の倍量を片付け終えてソファで眠るエイトの姿。その姿はうつ伏せで両腕を枕にしており、顔を守るようにしていたので、まるで再襲撃を警戒する獣のようだったがマルチェロがそれに気づいたかどうかは知らない。