サヴェッラ大聖堂の入口近くにある、東屋の一角。
そこにはいつからか桜の樹が植わっており、その季節最後の花を咲かせていた。
さくらんじゅという魔物らしいその魔物は、とある人物に討伐された折に改心し、惹かれて着いて来たのだという。そして、そこへ根を下ろした。いつでも彼の人に会えるように、と。
――そんな噂のある建物の屋根の下に、ひっそりと影が一つ。
赤いバンダナを頭に巻いたその人物は、椅子代わりに置かれた長石に腰を下ろし、支柱に凭れかかっている。
その美に惹かれるようにして、ひらり、ひらりと。
自ら寄り添うように、はらり、はらりと。
髪に、肩に、ひとつ、ふたつと花びらが落ちていく。
だが彼は胸の前で両腕を組んだ姿勢のまま、身動ぎ一つしない。
不思議に思い近づいて見れば、その双眸は閉じられている。
――まさか、と思う。
(……眠っているのか?)
浮かんだ疑問は、更に距離を詰めたところで解決する。
白い肌に映える、長い睫毛の影。常に背筋の伸びた凛とした姿勢は、眠りの揺籃にいるらしい今は緩やかに項垂れていた。
こんな場所で何をしているんだ、コイツは!
胸中に生じたのは怒り。神聖な場所での居眠りについて、ではなく、その迂闊な無防備さについてだった。
人を寄せ付けない程に整った美貌は相変わらずだが、常に纏っている氷の気配は、眠っているせいか威圧感がほとんどない。よからぬ思想を抱いた者の目に留まれば、どうなるか。
マルチェロは眉間に皺を寄せ、その青年に対してのみ癖となった溜息を吐いた。
それから足早に――心持ち足音と気配を潜めたのは、何に対しての気遣いか――その美を無防備に曝け出している青年の側に近づくと、上着を脱いで相手のその頭へと被せる。
その際に微かに風が起こり、青年の頭や肩に積もっていた花弁の幾つかが、辺りにひらり、ひらりと舞い散った。
上着の重みの為か、青年の体が僅かに傾ぐ。重力のままに、ゆっくりと横へ、横へとずれていく。
いずれは大きく倒れてしまうだろう。その前に目を覚ませばいいのだろうが、見ている限りではそんな様子はない。
いっそ、叩き起こしてやろうか――しかし、俯いてもなお美しい顔には、どことなく安らかな表情が浮かんでおり、肩を叩こうとした手は空中で止まる。
逡巡した時間は、一瞬。
マルチェロは溜息を零すと、顰め面のまま青年の隣に自らも腰を下ろす。丁度そこに青年が凭れかかってきたので、受け止める形となった。
肩口に頭を乗せる格好となってもなお目を覚ます様子がない青年を見て、マルチェロは苦笑を零す。
「人目も気にせず、このような場所で眠こけるとはな。それでも大国の兵士長か。」
皮肉を吐く言葉はしかし囁くような声量で、見つめる眼差しは僅かに柔らかい。
触れている肩から伝ってくる熱は、女神と評される程の美貌を持つ青年が、自分と同じ人間だということを教えてくれる。
そう、この青年は――エイトは、ただの人間だ。
だから別に畏怖することも遠巻きにすることもないわけだ。
だから……触れてもいいのだ。神ではなく人間ゆえに。
――であれば、罪ではないだろう?
「そうだな? 女神……いや、エイト?」
口元に微苦笑を浮かべ、その上着の隙間から覗く前髪にそっと触れる。
兵士の割に滑らかな質感の髪は、マルチェロの指を簡単に通り抜けていく。
孤児だ、と当人の口から聞いたことがあった。
しかしながら、その所作や礼儀は確かなもので――時々はおかしな行動をとるが――けれど、見せる動きの一つ一つが美しく、どこか貴族を思わせる雰囲気がある。
貴族――いいや、それこそ王族のような存在感すらあって。
その辺りについて、一度問い質したことはあったが、答えは――「知らない。」
隠し事をしている……というわけではないようだ。もっとも、エイトはとにかく無表情で感情を表に出さない男だから、何をしても外からは読み取れないのだが。
事実、嘘をついているようにも見えなかった。
それに、この女神殿はどうにも虚言に長けていない。その分、端的ではあるが零す言葉には強い力があり、また確たる正しさがあった。
短い言葉はしかし、深々と突き刺さる長剣。心の臓まで、躊躇いなく真っ直ぐに射抜いてくる。
それ故か、短時間で惹きつけるのだ。
善どころか悪でさえも。
(――俺もその内の一人に換算されるのだろうな。)
マルチェロの手はいつの間にか花弁のように髪から流れ落ち、その頬に触れていた。
髪と同じく滑らかで、少しひやりとした質感は白磁の陶器を思わせる。
どこかの成金貴族が彼に、大金を払うから自分のものになってくれと言い寄ったらしい。
それは“善意の市民”からの情報提供により、大きな不正を働いていたことが判明した為、任務に忠実なる“聖堂騎士”によって処断されたので、問題とはならなかったが。
市民は長い銀髪をした美形の男だったとか、処断した聖堂騎士は鷹の目のように鋭い眼光を持った男だったとか。
さりとて、それは件の事件とは関係ないので、報告書には欠片も載ってはいない。
(あれは確か、煉獄島の看守に任せて来たから表には出んだろう。生存は確約してあるし、看守には給金を弾んだ上での口止めもしているしな。)
“無関係者”であろう騎士団団長は、エイトの頬に触れたままそんなことをぼんやりと考える。
まあどちらにせよ、この女神殿は大国トロデーンの兵士なので、彼の王と姫とが貴族の要求を簡単に撥ねつけるだろう。
なにせ、一代限りの成金だ。王族に勝てるわけも無い。
可能性はゼロ。勝利は確実。
それでも、自分の手で先に片付けたかった。
彼の女神に向けた汚らしい情欲が、欠片でも降りかかるのが許せなかったので。
その衝動が独占欲からのものだとは、マルチェロ自身は気づいていない。
(俺の手はまた一つ罪を重ねたが……まあ、どうということでもないな。)
ああ、許しを請う気はない。――懺悔するものなど、どこにある?
それに現在、自分は彼の眠りを妨げず、それどころかこうして肩を貸しているのだから、相殺されても良い筈だ。
(そうだろう、女神殿?)
嘲笑めいた笑みを浮かべる先は、己の罪か見知らぬ神か。
マルチェロは答えを確かめるようにエイトの頬をするりと撫でてから手を離す。
その時、上着の影の隙間から、エイトの髪を滑る形で花弁がひらりと落ちて来た。
それを見たマルチェロは、花を払ってから服を掛けてやるべきだったか、と思ったが、どうしてだかこの男には花が似合う。……他にも同じように似合う男を知っているが、同列として語るのは、なんだかエイトと距離が近いのを認めてしまう気がして癪に障るので、その思考は中断した。
お互いに一応の和解はしたが、だからといって譲歩する気はない。それとこれとは別だ。
……?
……譲る? ……“何”を?
なんともいえない気持ちになり、首を振る。
(……アレの病気が伝染ったか? ……まさかな。)
ふと意識を戻せば、また滑り落ちて来た花弁があり、それがエイトの唇に引っ付いたところだった。
「ん……。」
その接触のせいではないだろうが、エイトが少し顔を歪めて身動いだ。その際にきゅっと唇を引き締めたので、花弁を食む姿になる。
この奇妙な桜の花弁は、ここに植わった直後に調べたので毒ではないことは証明済みだ。口にしても死にはしない。
だが、彼の唇に食まれたその花弁は、まるで甘噛みされているように見えて。
我知らず、その唇に手が伸びていた。
邪魔者の襟首でも掴むようにして花弁をつまみ、取り払う。
勢いで指先が唇に触れてしまい慌てたが、その接触に対してのエイトは特に動く様子も見せず、今も尚マルチェロに寄りかかったまま眠りの海の中。
揺籃にて、たゆとう佳人。
警戒なく、冷たい気配もなく、ただただマルチェロに身を預けて静かな寝息を立てているその姿はまるで母親に身を委ねる赤子が如く。
そんな様子に、マルチェロが口端を上げる。
「なるほど。俺は赦してもらえるわけか?」
この罪を。
この接触を。
……ここより先の、触れる行為を。
「お前が目を覚まさないのも悪いんだぞ。」
ついでに責任転嫁もしておいて。
その上体を支えるようにして、エイトの肩に腕を回す。
人目から完全に隠れるようにさせた、その死角。上着の影の奥に向けて、マルチェロは上体を傾げていく。
長いような、短いような静寂があった。
マルチェロは身体を離すと、エイトの肩を抱いたまま自らの方へと再び寄りかからせて壁となる。
衆目から、その存在を隠すように。
その隙を、周囲に悟られぬように。
当人に自覚があるのかは分からないが、その様はまるで高貴なものを守る騎士が如く。
そうしてマルチェロは懐から書物を取り出すと、足を組んでそれを黙々と読み始めた。
それは、いつまで?――無論、相手が目を覚ますまで。
不可触の女神。
聖域の静謐な陰にて、その禁忌は破られて。
神は笑う声を聞く。
天罰とやらがあるならば、落とすと良い。
そんなものにいちいち怯えていては、この女神にはいつまで経っても触れられない。
ああ、罪となるなら何度でも重ねてやろう。
この存在を奪えるなら、この手に掴めるのなら、幾らでも何処までも堕ちてやる――その時は勿論、この女神も一緒だが。
その宣言と共に立てられたであろう爪はしかし肉に食い込むものではなく、むしろ極上の柔らかさを以ってして彼の存在に触れていることに、果たして当の獣は気づいているかどうか。
神は、突き付けられた罪ならぬものを前に苦笑する。
眼差しは、大切なものをしっかりと抱えて離さない子供を見守る親のそれに似てはいなかっただろうか。